米山梅吉記念館内

About Rotary

ロータリークラブとは

ロータリークラブの誕生

20世紀初頭のシカゴの街は、著しい社会経済の発展の陰で、商業道徳の欠如が目につくようになっていました。

ちょうどそのころ、ここに事務所を構えていた青年弁護士ポール・ハリスはこの風潮に堪えかね、友人3人と語らって、
お互いに信頼のできる公正な取引をし、仕事上の付き合いがそのまま親友関係にまで発展するような 仲間を増やしたい、
という趣旨でロータリークラブという会合を考えました。

ロータリーとは集会を各自の事務所持ち回りで順番に開くことから名付けられたものです。

こうして1905年2月23 日にシカゴロータリークラブが誕生しました。

それからは志を同じくするクラブが、つぎつぎ各地に生まれ、国境を超えて、今では200以上の国と地域に広がり、
クラブ数35,109、会員総数1,235,536人(2015年5月31日RI公式 発表)に達しています。

そして、これら世界中のクラブの連合体を国際ロータリーと称します。

このように、歴史的に見ても、ロータリーと は職業倫理を重んずる実業人、専門職業人の集まりなのです。

その組織が地球の隅々にまで拡大するにつれて、ロータリーは世界に眼を開いて、
幅広い奉仕活動を求められるようになり、現在は多方面にわたって多太の貢献をしています。

日本のロータリー

わが国最初のロータリークラブは、1920(大正9)年10月20日に創立された東京ロータリークラブで、
翌1921年4月1日に、世界で855番目のクラブとして、国際ロータリーに加盟が承認されました。

日本でのロータリークラブ設立については、ポール・ハリスの片腕としてロータリーの組織をつくり、
海外拡大に情熱的に取り組んだ初代事務総長チェスリー・ペリーと、創立の準備に奔走した米山梅吉、 福島喜三次などの先達の功を忘れることができません。

その後、日本のロータリーは、第2次世界大戦の波に洗われて、1940年に国際ロータリーから脱退します。

戦後1949年3月になって、再び復帰加盟しますが、この時、復帰に尽力してくれたのが国際ロータリーの第3代事務総長ジョージ・ミーンズでした。

その後の日本におけるロータリーの拡大発展は目覚ましいものがあります。

ロータリー財団への貢献も抜群で、今や国際ロータリーにおける日本の地位は不動のものになりました。

現在、日本全体でのクラブ数は2,248、会員数88,431人(2020年3月末現在)となっています。

ロータリーの目的

ロータリーの目的は、意義のある事業の基礎として奉仕の理念を推奨し、これを育むことにある。

具体的には、次の各項を奨励することにある。

知り合いを広めることによって奉仕の機会とすること。

職業上の高い倫理基準を保ち、役立つ仕事はすべて価値のあるものと認識し、
社会に奉仕する機会としてロータリアン各自の職業を高潔なものとすること。

ロータリアン一人一人が、個人として、また事業および社会生活において、日々、 奉仕の理念を実践すること。

奉仕の理念で結ばれた職業人が、世界的ネットワークを通じて、国際理解、親善、平和を推進すること。

付記:「ロータリーの目的」の4つの項目は、等しく重要な意味を持ち、
また同時に行動を起こさなければならないものであることで、RI理事会の意見が一致している。

四つのテスト

言行はこれに照らしてから

.真実かどうか(Is it the TRUTH?)

.みんなに公平か(Is it FAIR to all concerned?)

.好意と友情を深めるか(Will it build GOODWILL and BETTER FRIENDSHIPS?)

.みんなのためになるかどうか(Will it be BENEFICIAL to all concerned?)

米山梅吉記念館

米山梅吉記念館の外観

米山梅吉記念館外観

米山梅吉記念館の2F 第一展示室

2F 第一展示室

米山梅吉記念館の2F 第二展示室

2F 第二展示室

米山梅吉記念館の2F 第三展示室

2F 第三展示室

米山梅吉記念館の1F ロビー

1F ロビー

米山梅吉記念館の1F 会議室

1F 会議室

米山梅吉記念館の1F ホール

1F ホール

静岡県は三島の西、長泉村(現在駿東郡長泉町)に幼時を過ごし、長じて、三井銀行に身を投じ、
常務取締役、三井信託初代社長、退いて三井報恩会の理事長として全国に奉仕活動を続けた。

外に大正9年、日本にはじめて東京ロータリーク ラブを創設し初代会長、更に青山学院の初等教育に終身献身した。

その人、名は米山梅吉と言う。

この人、一方では漢詩、和歌、俳句もよくした文人で、藍壷(あいつぼ)と雅号した。

幼児よりよく遊んだ黄瀬川にかかる滝、 藍壷(鮎壷とも言う)にちなんでつけられたという。

米山梅吉は東京芝田村町に明治元年(1868)に生まれた。

父は大和国高取の藩士和田竹造、母は静岡三嶋大社の神官日 比谷右京の娘うた、その三男である。

生時、和田姓、梅吉4歳の時(満年齢 以下同じ)、父竹造死去、止むなく母の郷里三島に母とともに移り住んだ。

梅吉は幼時から神童といわれた英才であった。

郷里の納米里という処に「映雪舎」という塾 のような小学校があった。

梅吉は7歳の時、そこに入学した。

兄の和田栄次郎がそこで教師をしていたからである。

梅吉11歳の時、納米里の隣部落、上土狩の米山家がこの出来のよい少年に眼をつけて養子にと望んだ。

この米山家は旧今川時代から北條時代を経て四百年も続いた旧家、名主の家で、
当時の当主は十三代藤三郎、夫人はさく、春子[戸籍上 はる]という一人娘(明治7年生)がいた。

後の米山夫人である。

映雪舎を終えた梅吉は明治14年(1881)沼津中学に入学した。

毎日2里(8km)の道を長泉から歩いて通った。

この学校は私学で、今の県立沼津東高の前身である旧制沼津中学ではない。

前身を沼津兵学校といい、今も沼津駅前には、兵学校跡の記念碑が建っている。

徳川慶喜が大政を奉還して駿府に隠棲した時、多数の幕臣がそれにつれて移り住んだ。

その子弟の教育のために造られた学校である。

公益財団法人米山梅吉記念館は、昭和44年3月26日、財団法人米山梅吉記念館として設立されました。

これに続いて、同年9月16日記念館(旧館)の建設がなりました。

この誕生を促したのは、静岡県駿東郡長泉町下土狩にあった米山梅吉終焉 の場所である米山別邸の宅地分譲の情報からでした。

これを伝え聞いた地元のロータリアンらが米山別邸保存運動へ、そして米山記念館建設へとかりたてて行きました。

米山は、幼少の頃を過ごした長泉の地をこよなく愛し、故郷長泉に本邸とは別の拠点として
明治42年12月下土狩駅の近く長泉町下土狩に土地を取得しています。

東京新橋と神戸をつなぐ東海道本線の全線が開通したのは明治22年7月のことです。

開業当初はまだ丹那トンネルは開通しておらず、国府津から沼津の間は現在の御殿場線を経由していました。

当初、佐野駅(現在の裾野駅)から沼津駅までは駅がなく、明治31年になって三島駅(現在の下土狩駅)が置かれました。

現在の下土狩駅は昭和9年12月に丹那トンネルが開通して現在の三島駅が出来るまでの間、三島駅として営業されていました。

この長泉村唯一の駅である三島駅は、その後長い間、同時に三島町まで敷設された豆相鉄道とあいまって、
三島伊豆方面の玄関口の役割を果たしていました。

米山別邸は、下土狩駅からほど近い場所でした。

一方、長泉町上土狩にある米山本邸は、下土狩駅から直線距離にして1500mほど北東で、歩けば30分ほどの道のりになり、
幹線鉄道の駅のすぐ目の前の別邸の地は、東京に活動の中心を置く米山にとって、うってつけの場所であった筈です。

米山は、大正6年この地に別邸の建築をはじめました。

木造2階建てで、1階42坪、2階20坪ほどのこじんまりしたものでした。

2階建てにしたのは、前にはよりよく駿河湾を望め、後ろには富士山が良く眺められるからであったと思われます。

ここは、富士山噴火のときの溶岩がいたるところ露出し、少し小高くなっていました。

ここを訪れた歌人の佐々木信綱は、
「君は駿東郡 下土狩に邸あり。起伏おもしろき丘の上に、めずらしくも竜舌蘭の花咲きたりとて、招かれて訪ひし事ありしが、」
といっています。

佐々木信綱がここを訪れたのは、昭和6年7月のことです。

米山は、この別邸が気に入り、人に来訪をすすめており、病がちとなった晩年には、ここで過ごすことが多くなりました。

そして、ここが米山終焉の場所となりました。

この土地は米山死後、嗣子米山桂三が家督相続し、昭和26年5月、多くの部分が知り合いの会社に渡たりました。

資産家である米山家の遺産の処理は、大変なことであったと思われます。

その後、一、二 所有名義が変わり、昭和41年6月、不動産会社に移りました。

それまでの一時期、昭和31年に短い期間首相をつとめた石橋湛山が居住していたこともありました。

そんなとき、この米山別邸が不動産会社によって分譲されるという情報がもたらされました。

これを機に長泉町周辺の沼津・ 沼津北・三島・伊豆長岡(現伊豆中央)の近隣ロータリークラブの会員何人かが米山別邸保存の動きをはじめました。

なんとか、この由緒ある家屋敷を手に入れ、ロータリアンのための保存をしようというものでした。

この地元の会員の中心となったのが鱸正太郎でした。

鱸は静岡ロータリークラブの所属で昭和40-41年度の第359地区(神 奈川県・静岡県・山梨県)のガバナーをつとめており、
その立場から保存運動の代表者的な役割を果たすことになり、
鱸を中心として地元ロータリークラブの間で米山別邸の動きが表にでることになります。

保存の対象となるのは、およそ340坪の土地と2階建60坪余の建物で、これを入手するには、千数百万円を必要としました。

これには相当広範囲にわたり募金を呼び かけなければいけませんでしたが、
まず地元で自発的な募金活動をはじめ、それを全国に広めることとなりました。

こうして「米山別邸保存会(仮称)」と銘打って、有志が別邸の保存に乗り出し、
静岡県東部の11クラブに呼びかけるとと同時に、当時の359地区内にも募金を呼びかけました。

この結果、およそ450万円の募金が得られました。

しかし、別邸を取得するには遠く、また、時既に遅く、分譲が進んでしまっていました。

そこで、方針を変え米山本邸の土地に目を移しました。

米山本邸は、米山家先祖伝来のもので、米山家が所有し昭和21年4月28日米山没後、家督相続により米山桂三の所有となっていました。

およそ1000坪の広さで、米山が分骨されている米山家の墓地もすぐ近くで、当時ここには長屋門が残されていました。

この敷地の一角を借り、別邸の建物を移築し、これを記念館にしようという計画でしたが、
当初米山桂三は「日本のロータリークラブを創立したのは父だけの功績ではない。

他の有力者の協力の結果によるもので父の為に計画してもらうのは本意ではない。」と言って承諾してもらえなかったといいます。

しかし、地元の方々の熱意に了解し、土地の一部を提供する。

ただ、別荘は殆ど腐朽しており移転は無理であろう。

せめて米山家代々の長屋門を記念に残してもらえれば嬉しい。との意向を示してもらえました。

その際、米山梅吉の遺品等について、火災で大部分消失したが、残っているものについては記念館へ提供する申し出を頂きました。

その後、有志が会合して協議の結果、別邸を移築する計画を取り止め、この集まりを「米山記念館建設準備委員会」と改めました。

新たに鉄筋コンクリート製の記念館を建設し、出入り口には本邸に残されている長屋門を原形のまま補修して 使用する方針が決められました。

こうして米山記念館建設準備委員会がスタートしますが、目途のついている資金では、 長屋門の修理、敷地内の造園を考えると、
記念館の建物は12坪となってしまい、もっと大きな建物とするため、募金目標を1600万円とし、広く全国規模で募ることとしました。

こうして昭和43年5月24日、米山記念館建設準備委員会が発足され、主な方針として、
記念館の建設を全国的な規模で呼びかけること、建設後の管理運営のために財団法人を設立することが決められました。

昭和43年5月24日、それまで 沼津北RCが担当していた事務局をこの建設準備委員会の事務局に移され、金銭も沼津北RCから移管されました。

この時点での募金は、静岡県東部を中心に、静岡県内全域のクラブ、
それに第359地区内の神奈川県内のクラブや個人的なものが主として合計544万6564円が引き継がれました。

その後、ロータリーの友の編集事務所から米山梅吉翻訳の『ロータリーの理想と友愛』の売上があったなどとして100万円の応募を得られ、
また第360地区(愛知県・長野県)の地区大会 から多額のものが贈られました。

このような篤志を含め、昭和43年7月末までに700万円余の募金が得られることになり、とりあえず最低限の建物建設の目途もつきました。

昭和43年10月29日、既に募金に応じてくれたクラブ、個人に中間報告をするとともに、今度は目標額を2000万円とし、
全国のロータリークラブ、ガバナーに応募のお願いをしました。

その結果、法人設立申請時の昭和44年3月18日現在で1536万円となりました。

募金は建物完成後にも続き、昭和45年6月30日には1810万円となり、目標に対し、9割の達成を得ました。

このように、北は北海道、南は沖縄に至るまで、全国津々浦々のロータリークラブ、個人から募金を得られました。

沖縄県のクラブからは当時の情勢から、ドルでの寄金でありました。

このほか、三井信託銀行、三井銀行本店、三井信託銀行 のOB会などからも相当額の寄附を得られました。

機運が熟し、記念館建設の槌音が聞けるようになりました。

大きくなくてもよい、小さなものでよい。

豪華なものでなくてもよい、質素なものでよい。

ただ、きらりと輝くものであれとの願いである。

埴生の宿でも、楽しい我が家である。

そんな関係者の思いがかなって、記念館の完成となりました。

米山文庫こども図書館

米山文庫こども図書館の外観

米山文庫こども図書館外観

米山文庫こども図書館の館内 1F

館内 1F

米山文庫こども図書館の館内 2F

館内 2F

昭和6年、米山梅吉は長泉小学校に図書館及び蔵書約1,000冊を寄贈しました。

「米山文庫」と名付けられ、生徒達に利活用されました。

満州事変勃発の年でした。

「当時、不況の波に人々が喘いでいたとき、この事業は氏の愛郷の 精神の賜物であると共に、人々にとって明るい話題であった」とその由来にも記されています。

悪化の一歩を辿る社会状況の中、せめて心の栄養だけは枯渇させまいとの思いがあったのではないでしょうか。

旧記念館の建物は現在「米山文庫こども図書館」として運営されています。

平成22年4月29日、長泉RC、米山記念 館、長泉町の3者により、この米山文庫が復活されました。

旧記念館を改装した建物は、国産の杉板張り。

素足で歩ける館内は、本が一目で見渡せる棚に囲まれています。

子どもの絵本を中心に、約4500冊を蔵書し、広く一般に開放され、
現在は年間7,000名余に9,000冊が活用されるなど、親子や地域の交流の場を呈しています。